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製糸で栄えた岡谷の歴史探訪

製糸で栄えた岡谷の歴史探訪
製糸で栄えた岡谷の歴史探訪

製糸都市岡谷

岡谷はかつて製糸生産高が国内の4分の1を占めたというほど製糸業が栄えた地。その歴史を今に伝える「近代化産業遺産」は市内に15ヶ所。ガイド片手にめぐってみよう。
岡谷駅周辺にあるのは、製糸家・林国蔵の居宅であった旧林家住宅。現在は岡谷市消防庁舎に使われている旧岡谷市庁舎、ツツジの名所・鶴峯公園なども、製糸に関わる場所の一つだ。


岡谷市の近代化産業遺産

鶴峯公園

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かつてこの公園は、蔓根・蔓根崎という字であった場所で、小学校があった場所です。片倉組初代片倉兼太郎は、低年齢従業員への教育の重要性を感じここに小学校を建設することにしました。

旧片倉組本部事務所

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名実ともに日本最大の製糸工場だった片倉組の本部事務所。事務所は明治43年に建築されました。国登録有形文化財。片倉市助は、明治6年(1873)に自宅の前庭の小屋を使って10人繰の座繰製糸をはじめました。

旧林家住宅

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製糸家であり実業家であった林国蔵の居宅。茶室と洋室が隣り合わせに接し、金唐紙の和室がある貴重な文化遺産。国重要文化財。

成田公園

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明治18年に地元の有志がこの地の山の神の祠のそばに不動尊石像を祀り不動信仰がはじまりました。その後、祀堂を建て、不動明王を迎え、奥の院を建て、石造三十六童子像が安置されました。天竜川に臨み、眺望も良いためもあり、参詣者が次第に多くなったので、大正6年に昭和天皇の立太子の記念に桜を植えて公園作られました。

丸山タンク

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生糸の製造には大量の水が必要で、さらに水質の善し悪しが生産性や品質に大きく影響しました。そのため、良質な水を豊富に確保することは製糸業発展の生命線でした。明治中期以降、製糸工場の規模が飛躍的に拡大すると、諏訪湖や天竜川河畔に大工場が集まる一方で、新屋敷などでは水不足が深刻化していました。

旧山一林組製糸事務所・守衛所

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大正10年に建築された旧山一林組製糸株式会社の事務所棟と守衛所建物です。国登録有形文化財。 山一林組製糸は明治12年創業で、岡谷でも5指に入る大製糸工場でした。昭和2年には、市内に本工場314釜、第2工場284釜、第3工場300釜、諏訪郡永明工場356釜、伊那郡伊奈富工場436釜、県外にも埼玉県熊谷工場320釜、千葉県我孫子工場365釜、静岡県沼津工場540釜、愛知県稲沢工場551釜の合計9工場3,966釜という全国第6位の釜数を誇る大工場でした。

株式会社金上繭倉庫

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製糸工場の原料繭は購入してから繰糸までの間、貯蔵が必要です。機械製糸発足の当初は、繭は居宅の2階か土蔵に置くのが普通でした。しかし、従来の土蔵は換気が悪くカビが生じる心配がありました

蚕霊供養塔(照光寺)

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蚕霊供養塔が建立されたのは昭和9年です。この当時の岡谷地方は、世界不況のあおりを受け、製糸工場は休業・倒産するところが多くありました。人々は職を失い、路頭に迷う者も出るなど、経済の咲紀域にも心を痛める状態でした。

旧岡谷上水道集水溝

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大正中期になると製糸業の隆盛と人口の急増から、飲料水・工業用水の需要が拡大していきます。時同じくして、腸チフスが流行し、その原因が飲料水にあると判明すると、上水道の必要性はさらに高まり、各地区で上水道敷設への動きが活発化しました。

市立岡谷蚕糸博物館所蔵資料

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市立岡谷蚕糸博物館は昭和39年10月に開館、平成26年8月1日に旧蚕糸試験場岡谷製糸試験所(後の(独)農業生物資源研究所生活資材開発ユニット)のあった場所へ移転。館内に館内に株式会社宮坂製糸所を併設し、博物館の愛称を工場の(factory)のイメージとシルクの真実(fact)を伝えたいという意味を込め「シルクファクトおかや」としました。

旧岡谷市役所庁舎

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昭和11年、製糸家により寄付された旧岡谷市役所庁舎。国登録有形文化財。 昭和初年の製糸業界は、昭和2年から始まった金融恐慌により、平野村(現岡谷市)では大製糸工場の倒産が相次ぎ、昭和4年の世界経済の大恐慌により製糸工場も大打撃を受け、失業者が続出、村民は不況のどん底に苦しみました。村会はこうした行き詰まりの村政を転換させ、製糸業一本の産業都市から多角的工業都市への発展を目指して再出発し、一新を計りたいと市制施行を熱望しました。

旧蚕糸試験場所蔵機械類

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旧蚕糸試験場で使用されていた多条繰糸機と繭の標本が認定されています。 終戦後、食料供給の見返りとして、アメリカへ生糸輸出を求めるGHQの要請を受け、農林省は生糸増産と品質向上を目標に優良繭の増産指導機関を全国に展開しました。岡谷には地元製糸家の熱心な誘致活動もあって昭和22年7月「蚕糸試験場岡谷製糸試験所」が設置されました。

新増沢工業株式会社所蔵機械

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製糸機械類を製造する「横フライス盤」が認定されています。 新増沢工業株式会社は、明治29年創業の日本に残る数少ない製糸機械メーカーです。増澤商店として創業した当時は、地元製糸工場で使用する結束糸や文庫紙などの小道具の取り次ぎを行っていました。

丸中宮坂製糸所繭倉庫

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昭和3年に創業し、今なお日本の製糸業の発展をけん引した諏訪式繰糸機による繰糸方法によって操業を続ける全国唯一の現役の製糸工場です。戦前に建築された繭倉庫が認定されています。

旧山上宮坂製糸所事務所・工場棟・再繰工場棟・居宅

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明治時代の日本の製糸工場のほとんどは小・中規模工場でした。いくつかの工場が集まって結社をくみ、共同で繭の仕入れや生糸の出荷を行うことで発展していきました。 山上宮坂製糸所もまたそのような結社のひとつでした。明治7年にざぐり製糸として創業して以来、大正~昭和の製糸全盛期、さらに戦後の復興期まで、岡谷の中規模工場として長きにわたり製糸業発展を支えてきました。

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